子供が転んだ時「痛くない、痛くない」が嫌いな理由

子供が転んだり、どこかをぶつけたりして泣いていたら「痛くない、痛くない」と言う人が多いです。特に年配の方は、子供がぎゃーーっと泣くとまず「痛くない、痛くな~い!」と抱きしめたり撫でたりしながらあやします。わたしが思うに、「痛いの、痛いの、飛んでいけー!」と同じような使い方で、慣用化しているのだと思います。

でも、この「痛くない、痛くない」を言わないほうがよい、と聞いた、読んだという方も多いのではないでしょうか。

実際にわたしも泣いている子供に言いませんし、まわりから言われると「なんだかな~」と思ってしまう場面が多いです。(言われても好意で声をかけてくださっているのは分かるので、あえて何も言いませんが。)

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「痛くない、痛くない」が意味するもの

なぜ言わないほうがよい、という意見があるのか。それは痛くて泣いている子供の気持ちを否定するから。転んだ、ビックリした、痛かった、怖かった、悲しい、助けてもらいたい、甘えたい、、、。

ありとあらゆる気持ちが混ざって子供が「ぎゃ~」と泣いているときに、「痛くない、痛くない」という意味は、たとえ慣用的な日本語のやりとりとして発せられたとしても、「そのぐらいで泣くな」「うるさい、まわりに迷惑だ」「早く泣き止め」「たいして痛くないだろう」という意味を含んでるように感じます。

本当に「痛くない」のかは子供本人にしか分からない

そもそも「痛くない、痛くない」は、本当にあまりたいしたことがなさそうなときにしか言わないと思うのですが、けっこう本気で痛くてぎゃんぎゃん泣いているときにも使われます。

自分が転んで、目の前が真っ白になって痛みで立てないような時に、「痛くない、痛くない」と言われたら?大人に対してであれば、「大丈夫ですか?何かお手伝いできますか?」ではないでしょうか。そこで「たいして痛くないでしょう?」と言われたら、わたしならとても腹が立ちます。(そういう事を言う医療関係者もよくいますけど。)

たいしたことなさそうだったけど、骨折していた、腕が抜けていた、脳震盪を起こして後から入院した、、、いろんな事故は身近に起こります。

「痛くない、痛くない」自体にそれほど大きな意味はないのかもしれません。でも、やはり子供の感情を無視した、一方的な言葉であることに変わりはないと思います。

子供は小さいだけで自分の意思を持っている

子供には厳しいしつけを、世間様に迷惑をかけないのが良い子、大人を尊敬していう事を聞くべきだ、、などという意見を持つ方が現代にも意外と多くいらっしゃいます。

逆に子供の気持ちを尊重するあまり、2歳や3歳の子とまじめに議論して物事を決めようとしたり、理解させようとして、子供がひどく自己中心的で我侭になってしまっている事もあります。

何がよいかは各家庭の考え方だと思いますが、子供が理由があって泣いているのに、「うるさい泣くな!」と一言怒鳴るような事はしたくありません。言い方はこれよりもずっと丁寧ではあるけれど、「痛くない、痛くない」も子供に我慢を強いるという意味では、似たようなものな気がします。

たとえ同じ言葉を発するのであっても、せめて先に理由を聞いて、大声でぎゃんぎゃん泣き続ける理由がないと判断したときに初めて、「もう泣くのはやめなさい」と言いたい。

ただ、大声で泣いてもいい環境で泣いているならわたしは心ゆくまで泣かせます。ドアを閉めたら迷惑にならないのであれば、「声がうるさいので、ドアは閉めて泣きなさい」と言います。

泣きたいときに声を上げて思い切り泣ける子供は、感情を出すことを必要以上に抑圧されていない、素直な子供なのだと思います。それが大げさで頻繁で大人の気を引くためのもの、となれば話は別ですが、本当に痛い時、悲しい時、感情を出すまいと無理をさせるのは、小学生ぐらいの子供にはかわいそうだとわたしは思ってしまいます。

「大きいんだから、泣くのはやめなさい」

だから、小学生の子などが外で泣いているときによく言われる、「もう、大きいんだから泣かないの。恥ずかしいわよ。」という言い方もわたしは苦手です。

なぜ泣いてはいけないのでしょう。隠れて泣けということなのでしょうか?大きいのだから我慢しろ、ということ?

隠れて泣く女の子

痛い時、困ったとき、親に隠す子になって欲しくない

自分にも経験があるのですが、遊んでいて血が沢山出るような怪我をしたときに、親に叱られるから怪我をしたことを隠そうとした、という友達がけっこういます。

本当ならすぐに手当てをして縫えばもっときれいに治ったのに、その日は隠し通して翌日になってしまったので傷が残ってしまった、とか。

これは、子供が怪我をしたときに、まず叱られることを考えてしまうから起こることです。

わたしは自分の子にはこうなって欲しくない。怪我をした、怪我をさせた、痴漢にあった、いじめられた、子供の世界で当たり前に起こる可能性があることを「自分が悪かったから」「叱られるから」と、隠さなければ、と子供に思わせるのは悲しいことです。

子供がそんな経験をした時、痛かったね、辛かったね、困ったね、どうしたらいいか一緒に考えようね、と抱きしめてあげられる親になりたい。自分が何かあったときに親や先生に隠さなければいけない、と思う子供だったからよけいにそう思います。

自分が特別可哀想な子供だったとか、親がひどかった、とは思いません。親をお手本に自分の子を育てたいとは思わないけれど、とてもがんばって育ててくれた、と感謝しています。大人になってからの親子関係も良いほうだと思います。わたしの時代には当たり前の育ち方をしたはずです。これが「普通」でした。

いい子でいなければいけない、こんな自分ではいけない、自分が悪い、という圧力はかならずしも周囲の大人の直接的な言動だけでなく、普通の会話や態度にちりばめられているのです。

大げさだと思われるかもしれませんが、「痛くない、痛くない」も最終的にはこの親子の信頼関係という部分に繋がってしまうという気がします。